テキストを表示
てその時の金の値段と同じに取引された。皮は敷物に加工し、いつの時代でも米三俵位と交換される値打をもっ
ていた(
奈藤長八「鹿角又鬼聞き書き」
「上津野・一一号』所収
)。
サルは明治期まで十和田山に数多く棲息し
宮城一杉「十和田開拓者として・栗山新兵衛翁の
偉績について」鹿角時報昭和八・二・二一所載
)、オオカミも時には里村
に出没するほどであった。オオカミの多かったことは、元禄一二年(一六九九)の記録に毛馬内通草木村、掲村、
赤坂村でそれぞれ少年が一人ずつ、芦名沢村では娘二人、風張村で娘一人が狼に喰い殺された(〓
『雑書』元禄一二
年五月二八日条
)、
花輪通でも元禄・宝永の頃狼が荒れて人馬に被害が出ているので、猟師に討たせる様命じていただきたいとの願
前書元禄一六年七月二七日
書が藩庁へ出されている(
)ことでもわかる。その後も屡々同様の願書がみえる
条、宝永二年四月二七日条
マタギは多くの場合、組織的な組マタギとして冬の山入りをした。幕末の大湯では向折戸の中村萬太、箒畑の
成田権太がマタギ頭で、各組とも七人マタギであったという。八幡平地区ではそれと異なり、四~六人の小人数
で組マタギを組み、阿仁から来た手慣れた人が首領をつとめている(
前掲斎藤
長八論文
○八幡平地区のマタギには七や九
の奇数をきらう習慣があった。また組マタギの他に一人マタギもいて、老犬神社の伝説に因むマタギ佐多六がそ
の例である。天明五年(一七八五)九月、菅江真澄が湯瀬の湯宿で身の上話を聞いた老マタギのような、漂泊者
的な一人マタギの存在もあった(
菅江真澄『けふ)
のせはのの』
)。
マタギは一種の職能的集団として、さまざまな戒律によってその連帯性を保ちつづけてきた。そこには一般社
会と異なる独得な習俗や禁忌が生まれ、守られていた。忌言葉としての山詞はマタギ同志にだけ通用するもので、
一般人の耳にはまことに奇異な感じを与えた。菅江真澄は文化四年(一八〇七)九月に十和田湖畔へ入った時、
休屋の山小屋で異様な言葉を聞いた。