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一、鹿角を襲った凶作
元禄の大凶作
藩政期の農業は天候に左右されやすく、天候不順が続くとたちまち大凶作となり、多くの被
吉が出た。元禄、宝暦、天明、天保の飢饉は盛岡藩の四大飢饉といわれており、鹿角も例外
ではなかった。寛永一八年(一六四一)にも大凶作があったが、当時は藩の財政が豊かであったので、餓死者は
出ていない。
貞享四年(一六八七)から翌元禄元年にかけては不順な天候が続き、連年不作となった。この時鹿角にも多く
の飢民が出ている。毛馬内伊藤家の『御年代記』
伊藤
家文書
)には、元禄元年の端境期に毛馬内代官所で御蔵を開き、
米を配って飢民七五〇人を救済したという記事がみえる。
貞享四年凶作ニ付、元禄元年夏中毛馬内町水飲、日用取之類渇命に及び候ニ付、御助米として年十五以上四百五人
日壱人四合、十五(以下)三百四十五人弐合、人数合七百五十人、日数廿日、御籾六十弐駄三斗弐升下置かれる。
元禄二年から四年まではほぼ平年作であったが、翌五年から又々不順な天候が続き、同七・八・九年、更に同
一二・一三・一四・一五年と毎年のように凶作に見舞われた。中でも元禄八年(一六九五)は全領で飢人三万四
横川良助
千人、餓死者四万人を出し、同一五年も飢人五万四千人、餓死者二万五千人に及ぶ大惨事となった(
「飢饉考
)。
)