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『御年代記』に元禄元年の救済のことだけが記されその後の記事がないのは、蔵米に余裕がなくなり飢民救済に

及びかねたものと思われる。

元禄八年九月、大凶作が決定的となったので藩では穀留令を出し、雑穀を含めて穀物の領外移出を禁止した。

一、当年不作ニ付而、御領内在々所々御百姓共へ仰渡され書付御代官へ遣され所々

一、沼宮内福岡三戸五戸花輪毛馬内

覚

四分心懸け申可き事。(『雑書』元禄八年九月一三日条)

一、当作毛悪鋪候由相聞得候ニ付、御蔵給所御百姓共、米は申に及ばず雑穀迄御領内之外へ一切出間鋪事

一、御蔵給所へ雑穀払御役、地頭ニて年貢金究にて差出候ものは雑穀にても払、金子出申度もの在々へ遣され可く候

坑度雑穀調遣され候相場直段よりハ、少々高直調候筈申渡候。雑穀代替外ニは、永身命を助り申様成る食物貯候様

随分心懸け申可き事。

(『雑書』元禄八年九月一三日条)

米、雑穀は一切領外へ出さないこと、また年貢を金で収めている者は雑穀で代替してよく、雑穀は相場より高

値で買上げる、雑穀ばかりでなく身命の助となるものの貯蔵を心懸けるように、というものである。

被害が広がるにつれ領内には不穏の空気が流れ、各地に徒党取締りの役人が派遣された。鹿角には松岡八左衛

門が出張を命ぜられている(

『雑書』元禄九)

年二月一四日条

)。

延享・寛延・宝暦にかけては早冷霖雨の天候が続き、領内一円に不作が続いた。宝暦三年

宝暦の大凶作

一七五三)は天候不順・早冷のため収獲は平年の半分となり、翌四年は上作であったものの

花輪通で浮塵子の大発生があり、場所によっては収獲皆無となった。

花輪通で浮塵子の大発生があり、場所によっては収獲皆無となった。