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この内毛馬内家一行の滞在について述べると、凶作により盛岡では食料確保が困難になり、毛馬内家では倹約

のため若旦那以下手廻り一一人を知行地三ケ田村に滞在させたのである。滞在は宝暦五年一〇月から翌年一〇日

までの一年間に及び、このため毛馬内家肝入善左衛門は言語に絶する苦労を重ね、一一人分の食糧の調達に当っ

た。しかしその労苦に報いられることもなく、年貢米に関する些細な手違いから、秋田領に出奔せざるを得なかっ

た。これに対し武治右衛門は次の様に述べている。

かほどの難儀の年、忠を尽せし肝入なれば褒美こそ有べけれ、以之外の成され方、情のふとぞ見へにける。たとへ主

人様にても、年により余り忠をば尽すべからず。御百姓難儀の事は、御出の内一日に当遣い一人二人と毎日御遣い成

され、御百姓いよいよ潰れける。御出の節は御むかへとして数十人遣し、御帰之節も右の通なれば、百姓いよいよ困

窮しける。かまへて主人なればとて、知行所へは御出なされる事御無用と心得べし。まことに虎高山にのぼってふも

と百のけだもの子を産みよろこぶといえり。下りてけだもの難儀におよぶとは、今こそ思え知られたり。

文中、当遣いとは百姓に命じた賦役のことである。武治右衛門は、毛馬内氏を虎にたとえて三ケ田村滞在中の

生活を批判している。

宝暦の供養碑

鹿角市内には、宝暦から明和にかけての餓死者供養碑が多い。その一例として、花輪長福寺

山門脇のものと、毛馬内仁叟寺門前の供養碑をとり上げてみる。

建立されたのは、いずれも多数の餓死者を出した宝暦五年の大凶作から二年目の、宝暦七年(一七五七)であ

る。長福寺の供養碑「三界萬霊等」には、風雨による摩滅で読みとれない所もあるが、次のように刻まれている。

大飢饉から二年たっても、餓死者の枯骨が葬むる者もないまま路傍に散乱していた。長福寺住職祖峯が近隣の寺

院に呼びかけ、遺骨の拾集を行い供養したのがこの碑である、という。仁叟寺の供養碑は、これより二カ月後の