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本田十万石の内、高六万五千六百七十石余
新田高十四万八千石の内、高十二万三千五百五十石余
不熟損毛高合計十八万九千二百二十石余
この年の有様について、米田家『萬覚帳』には次のようにある。
〈明三卯ノ年四月一日に天より火振り候て、又は此世かいらぐになるなとと春中大さわぎにこれ有処、其後草おい〓
れ無く、梨子、なんばん壱つ宛外なり申さず候。うり、さゝげ共に同様なり。六月廿日土用入故、土用中井土用後ま
で寒さ沢山、七月末八月始め頃まで東風西風吹き、作物青干に罷り成り、八月十日頃穂出候得共、実法りこれ無ノ
(中略)右の故、わらび根、ところ、ふき沢山取集め、外に十一月頃よりわらさえまつ(市)に、切かごにて干し稗同
様はたき、きんふりにておろし、粟ぬか、わらのこう十一月末より五月末迄相用申候。
麦種これ無く候得共、手前切沢山にて畑四つ役程作り候て上作。夏米相場壱升百六十七十文、古米壱升弐百文より弐
百弐三十文まで、粟壱升弐百文、大豆壱升弐百廿文、小豆壱升百八十文、蕎麦壱升百文、稗壱升七八十文より九十文
まで。乞食非人沢山、人数三ケ二餓死、三ケ一残り申候。明屋沢山、当村は本十四軒、九軒明家五軒相残る。
)、
文中「天より火降り」とあるのは火山の降灰と思われる。わら餅を食した事は宝暦にも例があるが(
「不作
覚書』
大明三年にも一一月から翌年五月まで七カ月間も用いたとある。米価が一升一六〇文というのは、当時としては
異常な高値で、第一市に穀物が殆ど出廻らなかった。新斗米村は肥沃な土地であるが、一四軒中九軒が死に絶え
又は逃散し、五軒しか残らなかった。伊藤家『御年代記』は「百年に稀なる大凶作、貴賤の別無く大困窮言語に
絶す」と被害の凄まじさを伝えている。
藩ではこの困窮領民の救済に懸命の努力を払っている。『南部家御秘録』
「三歳異
変』所収
)によると、次のように御
役金銭・諸郷役・年貢を減免し、また御救として金銭を与えている。