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平堂、設楽両人はともに毛馬内通代官である。支配所内の百姓窮乏の際には、代官の裁量によって囲米の融通
が行われたのであろう。後の嘉永四年(一八五一)一一月、藩は各村方に対し高一〇石に付三斗五升の囲穀を行
うことを達している(
嘉永四年『諸御用留帳』・『鹿)
角市史資料編第十五集』所収
)。
一、當作合豊熟ニ至候ニ付、非常御備の為御蔵給処高拾石に付米三斗五升積を以て囲穀仰付けられ候条、一統御厚楼
之御趣意相心得え御村方え申諭し、肝入を以て又は身元慥成ものえ預置き囲米取計いさせ申し可き事。
十一月
次いでの達に次のようにある。
一、此度仰せ出され候御村方一統囲米、土地ニ寄り素より米出来兼ね候場処は雑穀取交せを以て囲穀致し申す可く、
尤も何村誰え備え置き候旨委細取調べ、当年中御勘定所え書上げ申す可き事
十一月十六日
このように村方において穀物を貯蔵した倉を郷倉あるいは備荒倉と称したといわれる。
味噌の払出し
味噌は凶作年の貴重な蛋白源である。宝暦五年『不作覚書』の「青草食物乃事」中にも、塩
で食した者は死に、味噌で食した者は助かったとあり、味噌は備荒食品として重要であった
(
市史第二巻上・第三章第)
五節鹿角の醸造業参照
)。
では大農や富商に御囲味噌の醸造・貯蔵を命じ、凶作時には安い値段で払出させている。例えば元禄一六
年(一七〇三)二月一六日、毛馬内代官所から伊勢屋九郎左衛門と片山甚吉の両酒屋に対し、差紙をもって味〓
の供出を命じている。伊勢屋分は次の通りである(
)。
山本家
文書