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御味噌三石六斗四升五合、此目形百八拾弐貫弐百五十目、小坂村飢人弐百七十人、一日壱人三勺積り、二月十六日よ
り三月晦日まで日数四十五日分御救に借遣わされ候。相渡し申可く候。
元禄十六年二月十六日
葛西市右衛門
苫部地源右衛門
また毛馬内若松屋市右衛門の『萬永久扣帳』安永八年(
高橋
家文書
)には、大凶作の教訓に鑑み宝暦一二年(一七
六二)代官から御備味噌の醸造と御預けを命ぜられた事が記されている。その量は、能登屋清左衛門・若松屋市
第9表天保4~6年阿部藤助の味噌払出し量
(天保4年『稗売払覚帳』阿部隆之介家文書
右衛門各四〇〇貫、伊勢屋四郎兵
衛一四〇貫、三右衛門二五〇貫、
計一、一九〇貫で、その後の凶作
年の救済に当てられている。若松
屋の記録には、更に天明三年(
七八三)、同四年、寛政一一年
(一七九九)に御囲味噌を醸造した
ことが散見される。
谷内村藤助の『稗売払覚帳』
(
阿部家文書・『鹿角
市史資料編第七集』所収
)には天保
四年(一八三三)から六年にかけ