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この歎願書は、蔵入地の復旧を命ぜられた長嶺村等七カ村の肝入・老名が御雇人馬の免除を願出たもので、宛
死の黒沢・長谷川は花輪通代官である。表面は歎願の形をとりながら、内容は非常に強硬なものとなっている。
宝暦の御雇人馬免除願は村ごとであったが、この歎願書は七カ村の老名・肝入全員の連名で提出している上に、
押して御雇人馬を命ぜられても、手に余る分は村の不仕付地をそのままにしておくより他ない、と内容も強硬で
ある。扱い様によっては、数カ村に及ぶ一揆にも発展しかねないものを含んでいる。
天明の大凶作以来、鹿角の百姓は組織力を増し、意識変化のきざしを見せ、やがて寛政から天保へかけてのい
くつかの百姓一揆となっていくのである。
二、農民の抵抗
鶴田村の地頭排斥
稲作の北限近くに位置する盛岡藩の農業は、天候に左右されることが多く、三年に一唐
)。
)
は不作凶作に見舞われている。貞享四年(一六八七)から寛政五年(一七九三)までの
〇七年間に、元禄、宝暦、天明の大飢饉を含め、凶作が四六回に及んでいる(
森嘉兵衛『南部藩百姓一
揆の研究』収載凶作年表
この連年の凶作による生産減退と凶作対策、そして農業生産が充分伸びないまま、幕府への数次にわたる御手
伝金上納、北方警備等の負担増、鉱山からの収入減などが重なり、藩財政は崩壊の淵に立たされていた。このた
め諸士の俸禄の借上げが行われ、百姓へのしめつけも厳しくなり、武士や百姓の生活は窮迫していた。
これに対する百姓側の抵抗が初めて記録の上にあらわれるのは、鹿角においては『雑書』元禄一四年(一七〇
)一〇月二日条である。鶴田村の肝入太兵衛と与惣兵衛が村人一五人と共に盛岡へ上り、鶴田村に知行所を持