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つ与力大守助十郎の年貢の取立てが厳しく、日頃の百姓に対する手当も行き届かないとして、藩家老北九兵衛栄

継の登城を待ち構え、訴状を差出した。助十郎は不行届の廉をもって給地七六石を召上げられ、およそ半地の

現米一五駄片馬の扶持方に格下げされて、鶴田村は給所地から御蔵入地となった。一方太兵衛、与惣兵衛は

無調法の故をもって鶴田村において斬罪獄門に処せられた。その後鹿角における百姓の集団的な抗議行動の記

録は、発見されていない。

寛政の百姓一揆

森嘉兵衛著『南部藩百姓一揆の研究』に引用された『盛岡御城下騒動日記』によると、寛

政七年(一七九五)一一月一四日、奥通の五戸、三戸、鹿角の百姓が御用金免除の一揆を

起こしている。

これより先、寛政六年焼失した藩の江戸屋敷の復興や、連年の不作凶作で藩財政は極度に窮迫し、御用金や寸

志金、分限金の名目で御用金を徴収して、百姓や町人の負担は限界に達していた。それに加え、同七年藩主利敬

の初めての御国入が行われ、藩ではそれに要する多大の費用を御用金で賄うことにして全領に賦課した。

これに憤激した百姓は各地で強訴を企てた。一一月八日郡山、一一日花巻、一三日安俵・高木、一四日五戸・

三戸・鹿角、一五日大迫・小山田などで強訴が行われ、更に一度は沈静した花巻も再燃した。一揆勢は盛岡へ押

寄せ、領内は騒然となった。

五戸・三戸・鹿角の強訴の願書は次のような内容である。以前仰付けられた御用金のうち、当春三月上納分の

残金さえ納めかねている矢先、又々寸志金を仰付けられた。これは全く心無い事と申すべきである。百姓が潰れ

る程の事を御上の言いなりに受合うのであれば、代官は不要であるとし、末尾では逃散も辞さないとしている。