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この大凶作のため多くの餓死者が出、間引、子殺し、私刑など悲惨な事件が相次いだ。その例は『三歳異変

「鹿角市史資料

編第三集』所〓

)に詳しい。

山間部の多い盛岡藩では平均一分作であったといわれ、宝暦、天明に次ぐ惨事となった。藩では年貢を半額に

減免し、鍋島藩から米を移入するなどの対策を講じたが、鹿角には救済米は届かなかったようである

穀物が底をつき、人々が飢に苦しむようになるにつれ、世情は騒然となった。伊藤

世情不安となった鹿角

家『御年代記』によると、天保四年には放火が頻発している。

当春二月廿日、萱町長助と申者火元にて廿軒全焼失、同廿二日川原御役屋屋敷同心四軒焼失、三月十二日同所同心の

家四軒焼失、物騒にて付火等これ有る趣にて夜廻り一丁限り用心、一丁ツヽに番小屋相立て、手木と木番木等打ち、

夜五ツ時より七ツ時過ぎ夜明迄相廻り候。

さらに流言飛語が横行し、何月何日と日限を切る流言も出たが必ず噂通りになったと述べている。また天候が

心配で夜も眠れなかったとあり、米屋は販売を停止して大騒ぎとなった。

鹿角通五拾石上三両弐歩、外に御高懸り百石ニ付弐両仰付けられ、土用中毎日〳〵北風雨にて、田畑青作致て宜しか

らず、其上洪水、六月十八日より米屋払米相止、此節相場は百文ニ付玄米壱升三合と申候也。払い候者これ無く候。

大騒に相成り、綿入へ道服重にて寒く相凌ぎ候。

伊藤家は高二〇石の桜庭家陪臣であるが、僅かばかりの手作り畑作も二百十日の風で皆無同様となった。米屋

は米や雑穀が底をついたため販売を中止し、大騒ぎとなった。六月には一〇〇文につき一升三合であった米がた

りまち五合、四合となり、庶民にとって手の届かぬ価格に暴騰して、その上穀物は市場から全く姿を消した。

これに対し、米騒動や一揆がまず花輪通から始まった。