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えていたと思われる。

代官所に差出す願書や村々への廻文は、花輪に医学修業に来ていた盛岡本町合羽師新七の弟周徳に認めさせた

後に周徳は、たまたま金兵衛宅の前を通りかかった処、呼び寄せられて酒の勢で書いたと述べている。

廻文と一揆誘引状は、一二月七日の夜、花輪谷地田町善八によって村々に配られた。この誘引状を受けた鏡田

村百姓半助は、肝入に相談することなしに次の用ノ目村へ伝達した。しかし鏡田村を始め米代川添の村々はこれ

に同調していない。廻文は更に善八によって大里村肝入治右衛門宅に届けられた。治右衛門は不在で弟已之松が

これを受けたが、無筆であったので内容を確めず馬差へ頼んで次の小豆沢村へ届けた。

翌八日未明、四人の肝入は村人を集めて趣意を説明し、五〇〇人を越える村人を率いて代官所へ向った。百姓

廷は代官所門前に詰め、願書を提出したが、門の扉は堅く閉され何の回答も得られなかった。旧暦の一二月八口

は既に厳寒の候である。夕刻近くになると興奮した百姓達は代官所に投石し、甚之丞や肝入達の必死の制止を聞

かず、盆坂を下り雪崩のように町へ押出した。

坂を下れば、大商人佐藤屋庄六の米倉である。たちまち土蔵の扉は破られ、米が次々と運び出された。他の何

軒かの大商人の土蔵も同じように打壊された。すると今まで鳴りをひそめていた代官所から捕手が一斉に繰出し、

一揆勢を上と下から挾撃した。百姓達はたちまち四散し、四人の肝入と甚之丞は捕えられた。

ここで不可解なのは関金兵衛の行動である。窮民救済を熱心に主唱し、廻文の順達など一切を取運んだ金兵衛

が、この実際行動に加わっていない。判決文では医師三ケ田道隆宅に居たとあるが、恐らく道隆に止められたも

のと思われる。