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これ有、惣肝入共願と申出候儀故、一通ならざる願と心付申可き筈、勿論頭人金兵衛其方を頼に存じ向合之ため願書
持参伺出候事故、模様も相知申可き処、承り申さず相扣させ然る可きと而已申捨置き等閑之致方、其上御尋之節々事
を左右ニ寄胡乱之儀申上旁、無調法ニ付深御糺之上急度仰付けられ方もこれ有候得共、花輪通毛馬内通米穀改方之儲
心付申上げ御救之御一助ニも相成り候ニ付、御憐愍を以牛馬下役当分加共御取上げ差扣仰付けられる者也。
月日
石之通御片付、公事懸御役人共評定之伺之通これを申渡す。
しかし繁左衛門はその後再び御城下支配に登用され、嘉永年間には毛馬内通代官も勤めている。
同橋甚之丞は前述の通り四月一〇日に死亡しているが、その甚之丞に対しても追放の判決が出されている。
花輪通土深井村肝入御境古人同様高橋甚之丞え仰渡さる
具方儀去年十二月八日、花輪通御百姓共数百人騒立候発り御吟味を遂げられ候処、花輪町金兵衛井其方肝入共へ相談
いたし廻紙差出候儀は、一旦は差留候得共、金兵衛申旨に随い願書認方共ニ金兵衛へ相頼み、八日同人宅へ其方罷越
恢節願書相渡候ニ付、稲村之橋え結付け土深井村え罷帰り候旨御尋之上由上候。強訴徒党之義は兼て稠敷御制禁ニ候
処、金兵衛重立其方共ニ肝入共へ相談村々へ廻紙差出候処より、御役屋下迄数百人罷出騒立ニ至候段無調法ニ付、御
安古人同様御取放、田名部牛瀧へ御追放仰付けられ候条、御城下井他御代官所へ立入候ハヽ曲事仰付けらる可き者也。
また四人の肝入は、一二月八日の強訴については代官所下役加の了解を得ての人寄せであると申立てたが、強
訴徒党は前々からの御制禁であり、たとえ奨められても断るべきであるのに、同意して行動を起こしたのは無調
法であるとして、肝入を解任され、大里村治右衛門は野田へ、小豆沢村清助は沢内へ、三ケ田村左内は七戸へ、
夏井村甚右衛門は田名部へそれぞれ追放された。この内三人はおおよそ一年で許されて村へ帰ったが、清助は沢
内で病死している。