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家が何軒か襲われていることは、村に関する意識に一つの変化があらわれたことを示している。村の内部では、
生活共同体の中心であった肝入層が次第に地主化し、支配者の立場に立つようになったことに対し、村内の百姓
の不信不満がつのり騒ぎが大きくなっている。
さらに従来までは余り見られなかった、数カ村が結束しての一揆への参加など、百姓が組織力を増し、村内部
の階層間の矛盾に目が向けられるようになり、藩政そのものに対する批判から世直し一揆に進むようになった。
天保期の一揆の後、閉伊郡小本村の弥五兵衛は全領を廻って世直しの必要を説き、鹿角でも六七カ村を廻ったと
いわれている。ただしこれを証する記録はみつかっていない。
四、藩政末期の一揆
軒別銭の賦課
大保一四年(一八四三)一〇月、藩は領内全域に軒別役を課した。軒別役はかまど役とも鍵
〓役ともいわれ、この年から嘉永元年(一八四八)一〇月まで五カ年中、軒別銭上納の間は
他の御用金を一切課さないことを条件に、村々残らず賦課されたものである。その金額は一軒に付一貫八〇〇文
小間居の者は数人で一軒分とし、逆に富裕の者は一〇〇軒、二〇〇軒分を収めることとある(
『内史略』后十・天保
四年一〇月二一日条
家一軒に付壱貫八百文当、日雇取、駄賃付類、極小間居の者は極少き当五十文当りを限とし、数軒を集めて一軒分と
9。或は半軒分或は三ケ一分、身上分限に応じ、次第に二軒当、豪富の者は百軒分、二百軒分余にも至り、町々は検
断、在々は肝入の目鑑にて割当、相滞り候得は在々は御算方仰付けられ相下り責付取立(下略
○。
軒別銭の割付は検断や肝入の判断によってなされ、異議は許されず、上納が滞ると数人の同心が派遣されて厳