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い上津野に入り、米代川を下って秋田の日本海方面に出たのです」「上津野はその流霞道上の要衝でした。ここ

が確保されて、はじめて津軽へも道は通じ、又秋田へも通行可能だったのです」と述べている。さらに、流霰の

流は中国の制度上朝廷支配の外にある辺境地帯を意味し、シグレというのは通り過ぎるという意味である。従っ

て流霰道とは辺境エゾの国を貫き通る道のことで、その頃上津野は未だ朝廷の支配力が及んでいない地域である

にもかかわらず、流霰道という官道が貫通しその影響力を及ぼしていた土地ということになる。このように上津

野は辺境の東西交通路として重要であったから、上津野とは上道野の転訛であったと理解してもよいのではない

か、と強調している(

「上津野』第六号所収

古代鹿角の諸問題」

)。

一一世紀に入り、奥六郡に覇を唱えた安倍氏の時代、その遠祖が津軽外が浜・安東浦等に勢力を築いたとすれ

『藩翰譜』第八

ば(

本拠衣川と故地津軽との間に絶えず連絡がとられ、鹿角道を経るのがもっとも近道であった

下・秋田系図等

に違いない。

『吾妻鏡』文治五年(一一八九)九月三日条には、源頼朝の軍に追われた藤原泰衡が、夷狄島をめざす途中、

肥内郡贄柵で数代の郎従河田次郎の弑逆にあい果てたことを述べている。その経路は、糠部郡の内今の二戸郡ふ

ら鹿角を通過し巻山峠を越え犀川を下って贄柵に至るコースであったと伝えられ、奥六郡-糠部-鹿角-比内-

津軽-渡島をつなぐ交通路の存在していたことを推測させている。

鎌倉時代、鹿角には郡地頭職に補任されたとみられる成田助綱はじめ、関東御家人の安保氏、奈良氏、秋元氏

などがそれぞれ郷・村地頭として所領を得ていた。これら現地の地頭代たちと関東本貫地の惣領家との往来は、

政務の連絡や徴収した所当官物の輸送など、時として頻繁なものがあったに違いない。そのほか津軽地方には北