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田山から湯瀬までの景観を『鹿角大湯日記』

菊池啓作武候・文政七年

岩手県立図書館蔵

)は次のように叙している。「田山よりし

はらく行て米代川橋向ひに有壁御番所有、此節花輪御給人詰合のよし、御番所前少し過て亦米代川の橋打わたり

小高き坂を登るに漸く馬の足立へきほと道せはく、左は高山屏風を立たる如く左は川深く見おろす分ノ此處雪中

難所といへり」「兄カ畑といへる家居三ツ四ツも有て一ツの家にて濁酒を商ける」。この間の一里塚は、折壁橋を

渡って間もない蛇石平と、左比内村の下手塩俵欠、才田の名月上ノ橋と石通の間の堰根の三カ所に築かれていた

「花輪通御通行)

)。

図」年代不詳

湯瀬は「人家十六七軒、畑作、樵夫のミ也。小商人も有。馬継所にして旅籠やも有。又此處の人家、川の端に

架て家居せり。(略)皆架作りノ旅店は其湯治宿也」

松浦武四郎『鹿角

日誌』嘉永二年

)ともみえ、此処には、長崎御用銅盛岡送り

の銅宿もあった。湯瀬を出て妻ノ神平の手前に一里塚があったという。「湯瀬と大欠の間狭き野原道行に、米代

川の向鷹の年毎に巣籠るといへる巌の水回より数丈高くそば立」「大欠といへるは道セまく右は山そは立、左ハ

米代川深く見おろし、雪中牛馬行往をとむ」「天狗橋水回より丈余高く橋柱なくして大成釣木のミ打渡たり、板

橋にして手摺有、又暫時行てはね橋あり、頓て板橋にして水上清し」

「鹿角大

湯日記』

○はね橋というのは、一ノ渡橋の

ことである。大日堂の前を過ぎ、小豆沢の村に入る。「中村に馬継所有。小商人、酒、烟草、草鞋、紙類を鬻げ

り。村内樹木多し」「大里村。人家二十余軒斗と思わる。農家のミ也」(

『鹿角

日誌」

。小豆沢の天王館北側に旅籠があ

り、その南よりに一里塚と駅場・高札場があったと伝える。天明五年の頃の大里には、作山某という宿や物商う

家もあった(

菅江真澄『けふ

のせはのの』

)。なお『鹿角大湯日記』には、小豆沢上十五日之内馬継、大里下十五日之内馬継と記

され、この両村で半月交替に馬継所を受持っていたことを証している。玉内でも「又村内ニ小商人壱軒。豆腐、