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明治以降のことである。
〓来満街道
奥筋往来
鹿角街道から室田(松の木)で分岐して毛馬内に入り、毛馬内から大湯を経て来満山中を越え三
戸(
青森県
)に達する街道が、いわゆる来満街道である。藩政時代この街道は「奥筋往来」「奥
三戸郡
往来」「三戸往来」などと表現されることが多かった。例えば「大湯来満奥筋往来道橋普請ニ付」「奥筋往来来満
道橋大湯大橋普請加勢人足之儀」(
以上寛延四年『大
湯御城御留抄』
)の如くである。また単に「来満越え」とも呼ばれた。
この名の起こりである来満山について『奥々風土記』は「毛馬内里の正東、群山の中に立て則鹿角郡と三戸郡
との堺なり、山上を経て関ノ駅家に通ふ甚険阻坂路なり。三十六里の間駅家もなく、且雨風烈く雪深く積る處な
れば、冬より春ニかけて往来絶ること常なり」と述べ、『邦内郷村志』にも、大湯村から関村迄「羊腸九曲都万
十里、九月より三月に至りて行路絶ゆ」とある。三〇里といい五〇里というのは、一里六町の計算からであろう。
松の木の駒形神社(金勢堂)脇から、錦木塚、古川村を経、大湯川を渡って毛馬内に入る。嘉永の頃の古川橋
は「石川急流、巨材を二本合して架る」「川幅凡三十間橋幅凡十五六間川中ニ所々ワクを置、是に石を詰其々右
之巨材を架て渡ス」
『鹿角
日誌』
)という有様であった。
毛馬内の町の様子について、同じく『鹿角日誌』は「市家弐百軒斗、一條街、鐘木の形をなせり。旅籠屋壱軒、
小商人多し、又紫木綿の名物にて市町染屋多し。何れも巨屋にして美々敷見ゆ。又市街の中一條の川有、清泉潜々
として常に流る」と述べている。町は駅処の機能をもち、仁叟寺門の下から小坂を経て津軽領へ向う濁川往来が