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分かれていた。古くから西側を流れる小坂川を渡って瀬田石沢へ入り秋田領雪沢へ抜ける「大館道」や、毛馬内
第5図中折戸の一里塚(斎藤長八氏撮影)
から瀬田石村の南を石野へ出、舟渡しで松山村へ達する他領往来も通じていた。
来満街道は下小路から仁叟寺横の寺の沢坂道へ入り、登りつめて上野の台上を北東へ進み腰廻村の上へ出た。
通称「大湯道」である。腰廻の下り口を、『北奥路程記』絵図は同村稲荷神社の上ミ手から大湯川岸へ下るよう
描いている。道筋は湯脇の田中を川原ノ湯西側へ出、鹿倉山の山根を
まわって下の湯へ入っている。
大湯は街道に沿って伸びた街村状の町で、駅処であり古い温泉地で
ある。藩主の巡視に際して下の湯に本陣を置くのが常であり、幕府〓
見使一行の宿泊地でもあった。駅場として、継立場や銅宿も置かれて
いた。町の有様を『鹿角日誌』は、「上の方には生垣、打貫門等にて
扶持人の住居も見え、町内旅籠屋弐軒、豆腐屋、小商人等有。此町よ
り上ニ上ると三戸道、雷満峠ニ行よし。此峠は昔に聞ゆ大難所也
「略)温泉場人家七八軒、二階作りニ致し湯治人少し見えたり。又其
の村の中に温泉壷三ツ有、其効能多きよし」と述べている(
三四二・三
ページ参照
街道は湯の岱、八幡堂の山際をたどり大湯川支流阿久谷川の一ノ渡
を越え、右岸の阿久谷平を横切り二ノ渡を渡る。二ノ渡は中の渡でも
)。
あり中の橋が架かる。下折戸の上ミ手に中ノ渡一里塚がある。中折戸