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第8図船霊神社
る。然し、近世の銅山関係文書の中に、米代川の水運が
花輪まで延びていたことを証するものは未だ見つかって
いない。結局鹿角の水運は、明治四年(一八七一)九日
「米代川通船之儀ニ付御届」(
『秋田県史』資
料・明治篇上
)以降のことと
忠われる。江戸時代に何故米代川に舟運が発達しなかっ
たか、という理由について次の諸点が挙げられる。
まず、川舟が遡上できなかった自然的障害として、藩
境川原館付近から始まる通称「四十八滝」の急滞の存在
がある。葛原・沢尻両村の上手約一キロメートルにも〓
り、かなりの傾斜で早瀬が白い飛沫をあげて流れている。
川中の幾つかの中洲をはさんで、浅い川底が数多く階段状の段差を作りながら続いているので四十八滝の称があ
る。固い岩盤を穿ち堀割を開鑿しない限り、舟の通行は不可能であった。次には鹿角盆地において米代川の流路
が大きく変化していることである。元川は現在よりもかなり東寄りに流れていたが、地殻の変動によって西山の
裾にその流路を変え、暫く不安定な時期が続いた。用ノ目付近から下川原へかけ、古い絵図には小沼、大沼、鈴
沼、地沼、清沼など大小の河跡沼群が点在している。天保期において奈良庄兵衛が大川千余間をつけ替え一六町
余の新田を開いたと伝えていることからも、流路の安定を欠く長い時期があったに違いない。さらにその上に人
為的障害が重なっている。慶長から延宝五年に至る七〇余年の藩境争論の末、幕府裁定の御墨引は白根境沢から