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一、五文荷上場村世話料
〆百拾七文右ハ当時御銅百斤入壱固運賃駄賃如此御座候。(中略
(中略)
一、御銅秋田領え入候ニ付十二処番処ニ於て固数御調を得切手申請け、夫より荷上場村番処え納正味貫匁調を得同所
より切手申請け、〓形村番処え納調を得同処より切手申請け、能代役人中え納夫より切手申請け、沖之口番処え納
調を得舟積仕り候。
即ち銅は十二所迄駄送し、十二所から舟に積込み米代川を下って能代迄運んでいる
上流の森林地帯で伐採された材木がおもに能代へ向けて川通されていた記録は、『雑書』にも散見する。即ち
天明元年(一七八一)五月三日条「大湯来満山公儀御用材木、花輪米代川筋扇袋御境流木致候ニ付、同所御境古
人秋田十二所古人え立合致川下候」云々、宝暦六年(一七五六)九月晦日条「鹿角古遠部、新遠部、相内右三ケ
山此度御側御手山ニ仰付けられ候ニ就て、御境付之御山之儀故折節見廻シ吟味ヲ遂ケ(略)尤米代川材木川下之
節、古人山見附置キ御境柱等え相障らざる様申付く可き旨仰出さる」などとみえている。その後、この材木川下
は幕末まで続けられている(
第三章第二節林産資源
に恵まれた鹿角参照
)。