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は秋田境のそれぞれ境目番所である。番所の別については『郷村古実見聞記』に、境目番所は口留番所とも申し、

境目(御境)番所のほか物留番所、中番所があるとしている。

番所の設置場所について、時代の推移とともにかなりの移動があった。とくにそれは物留・中番所において著

しい。例えば鹿角・三戸両郡境に近い夏坂番所は、慶安元年(一六四八)関から夏坂に移り、さらに夏坂の村下

から村の上手に位置を替えた。『雑書』安永六年(一七七七)四月二八日条に、御番人佐々木弥兵衛に対し「右

御番所より上ノ方ニ不老倉御銅山江ノ通用道有之、人馬往来仕り候得共、御番所より隔たり改方差支申し候」

「右御番所不老倉道より上ノ方エ御引かせ成され候様仕り度く、左候得は御番所前往来仕り吟味方宜く御座候段」

申出の通り許す旨、申渡したことを記している。また後述の如く、湯瀬番所が廃され田山村に折壁番所が設けら

れている。

番所の変遷について、いくつか不明の点がある。番所に関わる『雑書』』での初見記事、寛永二一年(一六四四

三月二八日条は、「兼平丹波同監物御暇下され、比内へ越候上下人数十六人内女九人ノ通手形、五左衛門伊賀連

判、関、折戸、松山番所へ一通ニて遣ス」、即ち兼平丹波一行の通手形を藩家老連判の上発行し、関、折戸、松

山番所宛に遣わしたことを伝えている。注目されるのは、三戸から来満道を経て比内へ抜けるルートに藩家老発

行の通手形を必要とする番所が三つもあったということで、しかも関、松山のほかに折戸があげられている点で

ある。この文意から推して確かに折戸にも番所があったかにみえるが、他にそれを証する文書は見当たらないの

で一時的・臨時的のものであったかも知れない。同じく『雑書』寛永二一年四月一七日条に「鹿角ノ内左靱御日

付ニ一条助兵衛遣わされ候」として、御留物の品が列挙されている。同じ内容の文が『南部藩志資料』にも採