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られ、それには「鹿角左靱番所」云々と表現されている。左靱とはどの地点をいうのか明らかでないが、『雑書
)か
円年五月三日条の記事に「田山ノ内織□部御番一条助兵衛、隠馬弐疋捕え候内」云々とある。この二つの記事は
殆ど時を同じくしているから、一条助兵衛の在番していた「左靱」と「田山ノ内織□部」は同じ場所で、さら〓
織□部」は後の「折壁」であると推測される。この時点で既に湯瀬物留番所は設置されている
寛永二二年
湯瀬留物札」
り、一〇数キロを距てて二つの番所が置かれていた可能性もでてくる。当時の鹿角往来は湯瀬越を本道にしてい
たとしても、脇道として花輪から花輪越(古くは黒沢越と称した)を辿り折壁へ出る線、坂比平から寒ノ背峠を越
え兄川ぞいに館市へ出て本道に合する線等の存在を考えると、湯瀬・折壁の両地点に番所があってもあながち無
理ではないかも知れない。
藩政の初期には、鹿角小坂にも番所の置かれていたことを示す史料がある。『雑書』慶安四年(一六五一)一一
月九日条「安ケ平助次郎鹿角小坂御目付仰付けられ遣わさる、小保内与五右衛門代」、同じく同年三月二五日条
「小保内与五右衛門鹿角小坂御番代り遣わし候ニ付て今日帰ル」とあるのを始め、承應三年(一六五四)三月一
二日条「鹿角小坂御番飯巻清丞申付ル、安平助次郎代り」とみえる。『御領分通分諸上納金米銭雑記』天和年間
(一十
一六八一
(八四
〓四)の項目に、「所々御番所」の鹿角関係では「鹿角湯瀬……鹿角松山、同小坂、同濁川、同熊沢」と、
小坂と濁川を別個に掲げている。
高札元禄一六年(一七〇三)六月、藩は次の物留高札を領内各番所に立てさせた(
「御領分
高札集』
)。
覚
一、武具類くろかね類