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兀治元年(一八六四)八月、漸く世情騒然となるに及び、毛馬内通代官へ次のような達があった。即ち、今船

浮浪の徒の取締り方の為「松山御番処井濁川御番人増人数仰付けられ候、依て非常ノ節御番人より助人数催促有

之候ハヽ、手寄御給人御与力中使は勿論百姓町人ニ至る迄早速駈着け取鎮め候様」に兼て手筈を申付けるとの内

容である(

天山堂文書『安政

七年御沙汰留帳』

加えて「両御番処御番人是迄三ケ年詰ノ処御差支合ノ儀有之、以来加番ともニ半年

代り仰付ける」との指示があった。これにより所給人による三カ年中定勤は一応廃された。

土深井番所

土深井番所は、境目の口留番所として花輪通土深井村に置かれた。村の東南端、鹿角街道の本

疸から分かれて銅山道の山坂へかかるその坂下に在った。この番所がいつから此処に設置され

たのか、今のところその実年代は明らかでない。『雑書』では、貞享元年(一六八四)六月朔日条に槇山銅山の

吹出銅三、三四四貫六〇〇目、箇数二三五箇の通手形を「とふかい御番所」宛に出し、また同年一〇月二七日条

に尾去沢銅山吹出の銅五、一五九貫二〇〇目、箇数三五〇箇の他領出通手形を「鹿角とふかい改所」に宛てて

るのが初見である。次いで前項にも挙げたように元禄五年(一六九二)五月二日条には、松山番人福岡与力九人

では「花輪とふかい御境御番所」もあって人数不足なので、三戸給人与力一一人を加えてほしいという記事がみ

える。おそらく土深井番所は、天和三年(一六八三)もしくは貞享元年(一六八四)にようやく産出量の増して

きた尾去沢銅や槇山銅の米代川積出、能代向他領出銅の改所として新設されたものに違いない。

玉永三年(一七〇六)四月七日条には「鹿角御境土深井御番所破損仕り候ニ付繕仰付けられ、御普請奉行町井

左平次、黒沢七右衛門、御山見之者六人仰付けらる」と記され、この左平次、七右衛門は共に花輪御境古人であ

る。また宝永六年九月一六日、土深井番所に対し次の達しが出され御境奉行小枝指又左衛門にも渡された。「花