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助と一年毎の発令をみているが、必ずしも一年きりの勤番に終わらなかった例もある。
早保二〇年(一七三五)九月には、大光寺彦右衛門が脚気を煩い暫く熊沢番所に相勤めていた処快気したので、
此度盛岡へ罷出て御番を勤めたいとの願書がみえる。
延享二年(一七四五)一二月二九日、境目通番所井びに往来吟味の番所に勤める給人与力の者共の勤方が粗漏
で「往来の筋改方牛馬通用共に不吟味之れ有る様相聞得候」、かつ老若或いは病身の番人が名代を雇って勤めさ
せる例も聞えるが、もしそうであれば親類共にも不念の咎めを申付ける。また諸士幼少より番を申付けられ雇の
代人を差遣わし置く例もあるが、「間違ノ筋之れ有り候てハ重キ儀に候間、召仕候者たりとも吟味を遂げ、勤方
等ノ儀ハ急度申付差遣わし申す可く候」事を仰付けている。しかしこのような取締りがどの程度徹底したかは疑
わしい。
例えば宝暦五年(一七五五)五月大光寺儀右衛門からの願い出として、知行所田山村高屋村の一〇〇石余が凶
作以後不仕付高多く立ちゆかなくなった。ついては熊沢番所より一里程隔てて田屋を所持しているので、右番所
当年より七カ年定番を仰付けていただきたい。「手廻引越罷有、御番所え召仕ノ者差置キ度々見廻り相勤め、知
行所不仕付高も世話仕り度」き旨を申し上げ、七カ年は聞届けられず五カ年中定番を「御番所度々見廻り油断無
く申付」けることを条件に許されている。なお宝暦一二年九月、大光寺左太夫より同様の趣旨を以て引続き三カ
年中定番を申出ている。
〓和五年(一七六八)一一月、赤羽根・鮎貝・遊井名田・閉伊田・熊沢の五番所に対し、次のごとく目付より
中渡された。一つは「右ハ御境御番所、是迄幼少御番仰付け置かれ候処、前々の趣を以て此度右ノ通御番人仰付