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天保一二年一月猪川多継跡三カ年定勤又重兵左衛門
同一五年二月又重兵左衛門跡同長牛礼八
嘉永六年正月吉田慶右衛門跡同中村彦右衛門
安政三年正月中村彦右衛門跡同又重五郎右衛門
現小
毛馬内通の内小坂地区
)に置かれた御境番所として、『雑書』等には先ず慶安の頃から小
濁川番所
坂町
「邦内貢
坂番所があらわれ、濁川番所の名はようやく天和年中「所々御番所」
)、元禄一四年三月
賦記』
「判鑑遣候所々御番所覚」
『雑
書
)、同一六年「他領物留制札」
『御領分
高札集』
に至って出てくる。『雑書』享保一二年
(一七二七)二月一四日条に「三戸福岡御給人御与力共鹿角松山、土深井、濁川、折壁右四ケ所御番相勤」とみえ、
同年三月一八日条に「松山御番所、濁川御番所只今迄毛馬内御代官支配仕り罷有候、御境目ニも御座候間(略
向後花輪御郡代指図仕り候様」云々とあることは松山番所の項で述べたところである。宝暦三年『万書留覚』に
は「濁川火事三月十四日晩四ツ時市十郎火本ニて御番所、権左衛門家、久五郎家四間焼失仕り候、尤其節御番人
唐次助殿勤番御制札共ニ焼失仕り候」ともみえる。
毛馬内勝又真三家文書に、表題を『明和六年丑四月濁川御番所』とした綴がある。御境番所の定目として仙
にも共通する内容なので次に掲げる。
覚
一、御番所ハ他領境格別之御場所ニ茂有之候間、別て心を用ひ昼夜無懈怠、平日不行作之儀無之様相勤可申事
一、番代之節、先規之通代之者江委申傅、麁末無之様可仕事