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といった形式である。湯瀬の例はわりに数が少なく、大湯の例が多い。これらの御暇願には、湯治日数を二廻、
三廻という表現を用いることもあるが、温泉によって夫々異なる効験の強弱を五日一廻、七日一廻というふうに
定めていたからである。当時大湯・湯瀬の一廻が何日であったかは詳らかでない
「八戸市史
八戸藩における大湯・湯瀬への湯治御暇願の例も多く、同藩日記
〓)から摘記すると
史料編・近世
○享保一九年四月一〇日舟越清右衛門儀鹿角大湯江三廻之湯治御暇、願之通被仰付
○寛延二年四月一二日鵜飼銀蔵親治右衛門病気ニ付、鹿角大湯江湯治二十日御暇之義願之通被仰付。
○安永元年四月二二日湯治御暇願之通斎藤意仙右大湯江三十日之御暇申出、願之通被仰付。
○文政三年八月八日鹿角大湯江往来三十日湯治御暇随為介抱妻召連申度旨願之通。鬼柳伝右衛門
○文政一〇年七月二八日盛岡御領鹿角湯瀬往来四十日湯治御暇願之通。三浦助右衛門
○天保一四年四月朔日盛岡御領鹿角大湯之温泉江往来三十日湯治御暇願之通。小平竜右衛門
右はごく一部の例示に過ぎない。病名の記載は余りないが、見る限りでは疝積、脚気、痔疾が殆どである。八戸
から鹿角への順路は、特に大湯温泉の場合など三戸を経て来満の街道をたどったものであろう。
幕末近くになり、盛岡藩諸士の湯治場は鶯宿、台の二カ所に限られることになった。即ち『御家被仰出』文化
一〇年(一八一三)二月一六日の項に「湯治御暇之儀、依病症願上候得ハ、繋、鶯宿、湯田、台、大湯、右五カ
所え是迄御暇被下置候処、鶯宿、台両所ハ只今迄之通御暇被下、外之場所えは以来御暇不被下置候事」との申渡
しが掲げられている。然しこの制約は間もなく撤回されたらしく、例えば『雑書』天保一一年(一八四〇)九月
九日条に、下田右門が「久しく湿瘡相煩候ニ付毛馬内大湯江入湯二廻御暇」を許されたが、眼病になって医師よ