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たが、今は下の湯が疝気打身に妙験があるというので繁栄している。また下の湯からすこし離れて川原の湯とい

う処がある。ここにも入湯の者が来ているが、この湯は眼病皮癬に宜しい、と記している。

天保九年(一八三八)の記録には、町の端に上の湯家三軒、同所町の端に下の湯があって家一六軒、その湯の

天保九年『御巡見御

上に薬師堂がある、とみえる一

)。幕末の領内地理書『奥々風土記』

江刺恒

久撰

)には、万病に効能

用扣帳』汲川家文書

があるがわけても諸悪瘡には大変よい、男女老少が沢山集まり、湯治客が年中絶えない、大湯村薬師神社には慶

長一三年(一六〇八)に奉斎したという古い棟札がある、としている。

上の湯、下の湯、川原の湯のほかに、すでに幕末から荒瀬の湯が開かれていたことは、萬延元年(一八六〇

『両鹿角扈従日記』(

上山守古・盛岡

市中央公民館蔵

にみえる、「上ノ湯ハ下ノ湯よりハ余程遠し、上ノ湯よりまた余程隔荒瀬ノ湯

とて在之由」の記事からも知られる。この日記には、この年鹿角巡見の大守利剛が湯治のため下の湯多七を本陣

としたこと、大守は日に三度「御目覚次第一度、九ツ時一度、夕七ツ時一度」入浴され、その度毎に詰番の者

拍子木を打たせること、また「壱番之御湯、御上出羽殿」「弐番湯、御用人より中奥御小姓迄」「三番湯、士分

御徒御下迄」と定めたことなどを伝えている。出羽殿とは利剛の次弟謹詳

初め釿次

郎と称す

)のことで、御家門方筆頭

に着座した人である。

なお、大湯温泉の湯守はどう定められていたのか、湯守御礼金がいくらであったかなどの記録は残っていない。

『雑書』享保二〇年(一七三五)一〇月一二日の條に

一、北九兵衛知行所鹿角毛馬内御代官所之内大湯村ニ而下ノ湯守孫左衛門家去ル八日亥刻出火焼失、類焼久三郎家井

湯坪囲天井半分程焼失、其外人馬怪我無御座候。(下略)