テキストを表示

一ノ庭は、近世になって大里村に住んだが、元は小豆沢に居住していたため小豆沢の舞をまとめる役を担って

いた。この社人の家からは特に神子が一人出ることになっており、毎年九月二〇日自宅において、五ノ宮大権担

湯立神楽を行っていた。また一ノ庭は、五ノ宮神社の管理をまかされていた。

籠屋も大里村に居住し、大里の舞を組織していた。また、神馬預りの役であるとも言われている。大博士は谷

内に居住し、自ら五大尊舞の大博士(金剛界大日)の役を担うと共に谷内の舞を組織していた。谷内の観音堂を

も管理し、一子口伝の秘密の祈祷を行うなど重要な立場にあった。なお一ノ庭と大博士は、近年まで元和二年

(一六一六)六月に南部利直より与えられた祭田の安堵状を所持していた。

この他の社人については明らかでないものの、時期により六人の社人がいたことは藩『雑書』の享保三年(一

七一八)四月二九日の条に明らかである。

一、鹿角大日別当妙光院支配社人六人、右大日社人と申、右之通烏帽子白帳差仕候

〓

しかし、この後天保年間まで明確な記録がなく、ただ大行事・小行事と呼ばれる役の者も社人として扱われて

いたようである。社人は安倍家『雑書』の天保一一年(一八四〇)三月に「社人佐々木多門」と見えるの

が、実名での初見である。同じく安政五年(一八五八)の同『雑書』に「下社人佐々木丹後、同佐々木多門」と

記されている。佐々木氏が何時頃より社人となったのかは明らかでない。佐々木丹後については、寛政年中

七八九~

〓八九~)より花輪の小館山神宮の別当となったこと、弘化三年(一八四六)に正式に神職となったと見られる

八〇

ことが、花輪神明社社家黒沢氏の筆になる『手鏡記録書』(〓

武石

氏蔵

)によって知られる。