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あった。一例を挙げれば、天和三年(一六八三)に藩主南部重信の六男主税の病気平癒の願文が、主税の母であ
る服部氏軽女によって奉られている(
安倍家
文書
。そして二年後の貞享二年に平癒したお礼として、鉢が一つ寄進さ
れている。
また、銅山の大日堂に対する信仰も見のがすことが出来ない。盛岡藩主利剛が鹿角地方を巡視した際の記録で
ある『萬延申歳両鹿角扈従日記』
一八六〇・盛岡市
中央公民館所蔵
)に
一、仏具壱面壱通
右は寛文十一年尾去沢御銅山御祈願所被仰付、大日尊依而御信仰、重信様御奉納ニ御座候。
とあり、大日堂が寛文一一年(一六七一)に尾去沢銅山の祈願所とされたことが知られる。単に尾去沢銅山だけ
ではなく、鹿角郡内の鉱山の祈願所でもあった。安倍家『雑書』天保一〇年(一八三九)の中に、鉱山の吉凶を
占った「御籤」として次のように記されている。
〓年沢御銅山御新訓所被付、大日尊御信、重信樣創奉納ニ御産樣
一、真金御山第三十二吉一、橋野御山第一大吉
一、西道金山第三十八半吉一、金沢御山六十五末吉
、白根金山三十九凶、銅ケ沢金山四吉
一、長坂金山二十吉
また幕末には各鉱山の産出量が減じたためか、新しい鉱山を発見するための占も行っている。尾去沢や白根に
は、別当が直接出向いて祈祷を行うこともあった(一
安倍家文書及尾去沢阿部
家文書『あつめ草』
)。
大日堂への信仰は、藩内に限ったものではなかった。その例として、現存しないが次の二つの鰐口の銘が記録