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われる。「小倉百人一首」の献額を初め数々の絵馬の奉納者名からも、武士、町人、村役人などあらゆる身分の
人から信仰されていたことが知られる。また当然のことながら、地頭桜庭氏(
日那様と呼
んでいる
)との関わりも深く、『不
動院袖扣』にもしばしば見えている。
なお寛政七年(一七九五)、三百段の石段が田山村
現岩手県
安代町
)の人々によって寄進されている(
『毛馬内郷土史
稿』伊藤良
ことなどは、信仰圏の広範にわたっていたことを裏付けている。
幸稲荷神社
幸稲荷神社は、花輪の総鎮守というよりも、現在では「産土神さん」として知られている。菅
江真澄の紀行『上津野の花』(文政四年)の中に「此南部ノ鹿角ノ郡花輪ノ郷ノ鎮守ノ御神を
幸稲荷とまをして三倉の御嶽の山脚にませり。また大江戸ノ芝ノ切通しの坂の上にも、幸稲荷のみやところあり
、時鳥多く名どころともてはやす處あり。其御神やうつし奉りしにや」(
『菅江真澄全
集』第十一巻
と記されている。はたし
て何時の頃に勧請されたものか、創建年代を伝えるものは無い。
この社の存在を確実に裏づけるのは、藩『雑書』の承應二年(一六五三)四月一〇日条に「御祈念被仰付所々
事(中略)花輪稲荷、此三十一社へも御米二十俵宛」とあるのが初見である。また同書の同年十一月五日の条に
よれば「鹿角花輪稲荷、三間四面の宮并三間七間の拝殿、近年建立無く、破損候得而」とみえ、このため別当の
光明司が鹿角中を勧進して寄附を集め、建立することの許可を得、明暦元年(一六五五)に再建されたらしい。
また慶長一〇年(
一六〇五、『鹿角
志』には慶長三年
、正徳元年(一七一一)、文化七年(一八一〇)にも修理が行われたと伝えられ
ている。別当光明司のあと、社家三日市氏の名があらわれてくる。『寺社』貞享五年(一六八八)八月七日の条〓
稲荷別当三日市海路」とあり、以来三日市氏は社家として明治に至っている。