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全国どこでも稲荷神社といえば、赤い鳥居、「正一位何々稲荷神社」の扁額や幟などが目につく。この正一位

の神階は、京都の神祇管領吉田家や伏見稲荷の社家が発行して全国に広まった。幸稲荷神社の場合、寛文年中

(

〈)に正一位の神階を賜ったと伝えられ、『両鹿角扈従日記』にも「寛文二年正一位に御神位の旨別当申

一六六一

(七一

せし也」とみえる。寛文二年を事実とすれば、南部領内でもかなり早い時期にあたる。

祭典行事として県無形民俗文化財「花輪ばやし」が広く知られるが、この花輪ばやしと共に神幸があり、御旅

所が設けられている。この御旅所は、安永七年(一七七八)に建物が大破し再建されている。中野氏により扁額

の寄進などもあった

)。

花輪南部家『諸御用

留帳』安政六年四月

柴内の不動堂

不動堂は、柴内のお不動さんとして崇敬されてきた社で、現在は大己貴神社となっている。

鹿角の中でも殊に古い堂社の一つとされているが、その由緒に不明な点が多い。『御領分社

堂』の中に「毛馬内代官所柴内村不動堂、五間三間、同別当不動院持勧請の由緒相知れず、元和二年利直公御

代御立直し成し下され、同年六月四石五斗社領御寄附され、御黒印頂戴所持罷有候、右堂大破に及び享保四年利

幹公御代、立直し成し下され候」として、社領のこと、堂社のことが見えている。『邦内郷村志』には「不動堂

岩屋山福昌寺、別当天台宗法輪院末寺不動院、本尊行基作(中略)阿保一本親王建立」とあり、また『鹿角志』

に養老年間(

七一七

~二四

)創立とおよその由緒が記されているがさだかでない。

小豆沢の大日堂と同じく寛文四年(一六六四)の本寺末寺制度の確立により、藩内の天台宗の総録である愛宕

山廣福寺(法輪院)の末寺となった。これについて安倍家文書の中に廣福寺から比叡山延暦寺の毘沙門堂(本寺。

に宛てた文書の写がある。