テキストを表示

『寺社・一』貞享五年(一六八八)八月七日条の、下閉伊郡の本山派年行事を勤める安楽院の訴えに、花輪村

稲荷別当庄太夫と同村市太夫が社家ではなく、山伏同然の者であるからまぎらわしい、とみえる。これは山伏勢

力の増強をはかり、支配下に置こうとするものであったため、幕府によって安楽院の訴えは退けられ、稲荷別当

三日市淡路(庄太夫)と倉之社家市太夫は神職であることが認められた。これより先の藩『雑書』承應二年(一

六五三)四月一五日の条に「鹿角之内花輪稲荷別當、(倉)大神別當、黒沢別當、八幡別當」とあるのが、社家

の存在を示すものとして不十分ながら傍証となる。この四人の別当が花輪における古くからの社家であったこと

は、藩『雑書』天明四年(一七八四)四月四日条の「黒沢明神別當宮館采女、八幡別當幡坂伊豫守、稲荷別當三

日市出雲守、倉大神別當沢井友弥」によっても知られる。この宮館、幡坂、三日市、沢井の四家が、近世初頭或

いはそれ以前からの神職であったと思われる。

これに神明社別当の黒沢氏が加わり、社家仲間五人組が組織されていた。『手鏡記録書』寛政二年(一七九〇)

九月の条に「先年より当所社家仲間五人壱組ニテ連判、宗門帳相認め廻番ヲ以年々御代官名当ニ致し差上来り候

所、去ル天明八年戊申年宗門帳相認め候節、仲間より拙者へ知らせも之れ無く」とある。社家仲間五人組の起源

は明らかでないが、少なくとも天明八年(一七八八)以前に遡るものと思われる。しかし天明八年以前に先の四

家は、それぞれ社領を有する社家であった。黒沢氏の奉仕する神明社には社領がなかったために、そのような問

題が起こったのであろう。

その後幕末になってさらに天王別当関氏、小館山神宮及び寿稲荷別当佐々木氏、春日別当黒沢氏などが新たに

社家となる。次に社家の奉仕する代表的な神社に触れてみる。