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など、この他にも多くみられる。このように城代以下一般庶民に至るまで、各階層の崇敬するところであった。
社家の黒沢氏については、萬治三年(一六六〇)に没した黒沢一井より明治に至るまで、九代にわたって奉仕
して来たことが確認される。初め黒沢氏も吉田家より神職の裁許状を得ていたものと思われるが、寛政三年(一
七九一)七月付文書控によると「此度拙者儀、白川様より官位頂戴仕り度」として、神祇伯家の白川家より神職
り官位を受けたいので、取り継いで欲しい旨を述べている
「手鏡記
録書』
)。
実際白川家の門下となったことは、『白川家諸国神社附属帳』文化一三年(一八一六)に「南部領鹿角郡花輪
村神明宮黒沢長門」と見えている。また、これより以前文化五年四月に「私忰斉義、兼て官位仕らせ度心願罷
有候所、此度京都白川様御内沼尾蔵人殿御取次を以、差登らせ申度存じ奉り候」とあり、親子二代が白川家から
「前掲
神職として認められるよう働きかけている一
)。白川家への入門としては、南部領内においてもかなり早い
書』
時期に属するものと言えよう。
⑤八正寺稲荷社
この社についても由緒不明であるが、中野氏により崇敬され社領五石が寄附されていた。天明の飢饉により、
これまでの別当であった半三郎というものが死去してしまった。その跡を受け継いだのが、神明社の別当黒沢氏
であった。その経過について『手鏡記録書』の天明四年(一七八四)一二月二五日条の中に「中野筑後領久保田
〓八正寺別當半三郎、去ル卯年凶作ニ付死絶(中略)此度日那様より八正寺別當其元え御頼仰付けられ候」とあ
る。以降黒沢氏が、神明社と八正寺稲荷社の別当を兼ねることになる。
また同書の寛政六年(一七九四)七月の条によれば「八正寺稲荷え御官位御下し、正一位八正寺稲荷大明神の