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ていった(

講座日本歴史5』

東京大学出版会

○盛岡藩においては、寛文年間から本末関係を定めた記録がある。のち延享元~三年

に『本末分限帳』『由緒世代書上帳』を提出させ、末端の寺院まで完全に把握することとなった。

寺請制度は、幕府がキリシタン禁止を行い、キリシタン信徒でない証明を檀那寺に証明させたことに始まり、

婚姻・旅行・移転・奉公などに寺院発行の宗旨手形が必要とされた。檀家をもつ寺院は、宗門人別帳を作成し、

寺請証文を出す役儀を負った。それにより檀家から檀家役

金

上納

)を取り立てることと、葬儀を執行する権限が

与えられた。この寺請制度には「民衆が葬式を執行する菩提寺の檀家にならんと志向したのに対応するがごとく、

仏教宗派の側も、たとえば曹洞宗が卒塔婆建立法要や葬式、授戒あるいは祈祷などの活動を通じて、地域に教線

を拡大していったように、積極的な活動を展開していったのである」

広良弘「中世後期における禅僧、禅

寺と地域社会」『歴史学研究別冊』

)という時代

背景もあった。さて鹿角市の近世寺院は第五表に示す通りである。

2、曹洞宗の寺院

曹洞宗は、道元により日本に伝えられ広まった。やがて福井の永平寺を中心とする派と能登の総持寺を中心と

する派に分れ、両寺を本山とする大教団が成立した。東北地方に進出したのは総持寺を中心とするもので、日本

海側を北上し、やがて関東からも教線をのばしてきた。天台、真言など旧仏教から曹洞宗に改宗した寺院も多かっ

た。禅宗の寺院は血脈相承でなしに、その相続が師資相承、又は本山からの指令によるために、実際の開山がむ

しろ名をあらわさず、師僧をもって名儀上の開山とし伝えている事が少なくない(

『東北の仏教』

及川大渓

)。

鹿角において近世中期から二九の寺院があったが、この中で一八(現安代町一、小坂町二を含む)が曹洞宗であっ

た。藩内の曹洞宗の支配は、盛岡の鳩峯山報恩寺が行っていた。