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た(
神社)社領一二石が寄進されていた。
月山廣増寺の名称は、別当寺を指すと共に月山神社の別称でもあった。なお廣増寺住職のことを看主とも称し
ている。たびたび無住となることがあり、宝暦年中(
七五一
~六四
)には盛岡加賀野村大庄厳寺の住職が兼務してい
「雑
書』
○享保一三年(一七二八)には火災で焼失している。寺の修覆の記録
「雑
書』
)は、宝永二年(一七〇五)、天
明六年(一七八六)、寛政八年(一七九六)とある。天明の修覆の時には富くじを興行して費用に当てている。
住職の世代については断片的にしか伝わっていない。『棟札書不動院』『不動院袖扣』によれば次の様になる。
貝寿坊-遍照院宥鏡-弘声坊-憲長法印-尊秀-空仙法印-観源-諦観は
)に廣増寺に替り、
八〇四
なお、藩主南部利敬は神祇道の信仰厚く、修験を廃したこともあり、文化年中(
へ一八
花輪の神職三日市飛騨が月山社の別当となったこともあったという(
「不動院
袖扣』
明治初年に廃寺となった。
)。
三、山伏修験と庶民生活
鹿角の山伏
青垣山に囲まれた鹿角の里には名だたる神々の山がそびえている。五ノ宮嶽、皮投嶽、三倉山、
月山、黒森山など、これらの山々を中心とした山岳信仰の盛んな時代のあったことは想像に難
くない。現在でも全く信仰が失われてしまった訳ではないが、山伏・修験との関わりは消えてしまった。この山
岳信仰に関する史料は少なく、山伏修験との関係も推測の域を出ない。本来、山伏と修験(者)とは、異なる者