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盛岡藩においては本山派と羽黒派の争いがしばしば起こっている。その最初のものは寛文一一年(一六七一)、

奥州南部領内の本山修験大徳院、安楽院、一明院の三人が、公儀から本山方の霞場に住んでいる修験は本山方が

支配すべきものだという証文をいただいているが、本山方の霞である南部氏の領内に住む羽黒派の修験が本山方

の支配をこばむのは、公儀の制を無視するものである、と称して幕府の寺社奉行に訴えでた(

戸川安章『修

験道と民俗』

)。これ

に対して幕府は「一、自今以後、羽黒山伏、本山の霞場に住むべからず。(中略)一、羽黒山伏、大峰客峰の時、

本山方より補任を受くるべからず。本山の山伏もまた羽黒客峰の節、羽黒方より免許状を出すべからず」と判決

を下している。しかし実際には、本山・羽黒山の山伏が同じ村に居住し奉仕する堂社もあったから、貞享元年

(一六八四)には「羽黒山伏、本山の霞場に住居するに於ては、本山年行司之支配を受くべき事。附、羽黒山伏、

自今以後、旦那場を霞と称すべからざる事」との判決となった。

その後、直接鹿角の山伏を巻き込む事件として、元禄二年(一六八九)に閉伊郡の本山派年行事の安楽院が、

鹿角の不動院・大蔵院・三光院に対して霞の役銭の要求や、伊勢熊野などの引導役とか海道役と称して金銭を取

立て、自分の支配に従わせようとした。これに対して不動院・大蔵院・三光院は、いずれも霞証文は羽黒在庁よ

り頂いたものであり、本山方より霞を預かったものでなく、従って霞の役銭などの要求は不当であることを訴え

た(

戸川氏

所蔵文書

)。これに対する元禄五年の藩の裁決は、安楽院は不当に霞の押領を企てたものであるとし、年行

事の役儀を召し上げた。それ以降鹿角は惣録の自光坊の支配を受けることになる。

山伏組織の確立と頭襟頭

鹿角は元禄五年(一六九二)以降は自光坊の支配下に入り、その体制は明治まで

続く。この関係を図式にすれば次のようになる。