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即ち元禄二年まで鹿角の山伏は八戸領の軽米村の本山派松本院の支配下に置かれていたところ、閉伊郡の安楽
院が、自分の配下として霞も本山派より預かった形にしようと企てたが、かえってその失脚を招き、鹿角の山伏
の支配は自光坊と定まった。八戸藩が分れてから二十数年を経たこの時期まで、南部領鹿角が八戸の本山派の支
配下にあって、宗門改帳を提出していた事は不思議である。
鹿角に頭襟頭(
末派山伏の
まとめ役
)が置かれた時期は明確でない。ただこの元禄初年において不動院、大蔵院、三光院
が鹿角を代表する有力な山伏であったことは是認されよう。延享二年(一七四五)に記された『神社由緒書上帳・
不動院』(
関西大
学所蔵
)、『神社佛閣由緒井世代書上扣』
金万
家文書
)、翌三年の『羽州羽黒末流修験』
金沢
家文書
)の中に頭
襟頭として、不動院、南光院(大蔵院)、慈顕院(三光院)が見える。これらの記録は藩に提出したものの控であ
る。従ってこの延享二年以前に鹿角に頭襟頭が置かれていたと言えよう。盛岡藩全域に羽黒派の一四人の頭襟頭
が置かれたのは、寛延三年(一七五〇)である。なおこの頭襟頭の役職はほぼ世襲的に任じられて来たが、毛馬
内不動院の場合、瀬田石の喜楽院と交替した時期もあった。
慈顕院は初め三光院と称したが、近世においては慈顕院の代に頭襟頭として活躍している。屋敷内に古墳三光
塚が現存している。
慈顕院の由緒は、子孫である海沼寿世家文書中の安永八年(一七七九)頃書かれた記録と、天明四年(一七八
四)の『祈念千人講當寺道場元三大師堂建立記』に記されている。この二つを総合すると、往古慈顕院は鹿角郡
の尾去村蟹沢の海沼館に居住していたが、羽黒山に登り山伏となり三光院と改名、石鳥谷村竹鼻に住居を移し、