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壱軒」となっている。後年この喜楽院の後裔が、不動院に替って頭襟頭を勤めた一時期がある。

不動院伝来の品としては、室町末期の作と推定される木造不動尊像と、「延喜十八戊寅歳」銘をもつ祭具が子

能代

孫の和田家一

〓)に伝わっている。

市

③大蔵院

鹿角の山伏の中で御目見以上の高い格式をもつのが、大蔵院であった。古来羽黒田を所有し、鹿角を代表する

山伏として重きをなしていた。この羽黒田をめぐり検地についての出入はあったが、元和二年(一六一六)に南

部利直よりの安堵状が下されている(

鹿角市史第一巻)

第四章第六節

)。この時は七石八斗五升三合(内一石二斗三合は物成)であっ

た。その後宝永五年(一七〇八)検地改めにより八石二斗九升六合に加増されている。なお、この羽黒田は大蔵

院の奉仕する羽黒新山社についた祭田であり、三年に一度羽黒在庁へ銀四貫宛上納することになっていた。

大蔵院の由緒書によれば、文明一八年(一四八六)に没した大蔵院法瑞より大蔵院(坊)、南光院(南光坊)、

大教坊などと称して歴代が連綿と続いて来たことが知られる。大蔵院の配下の山伏は円蔵院ただ一人であったが、

この二人で六カ村、二九社の堂社に奉仕していた。

延享二年の『神社佛閣由緒井世代書上扣』によれば「御祭礼毎年六月朔日ヨリ十五日マテ御宮籠仕り、十五日

神前ニ於テ御国風能クツシノ舞法楽仕り、御祈祷申上ル」とある。そして「右の御面其数二十七御座候所、申伝

は即性院様御代、御取上ケ遊され此内一面御取上、相残る二十六面尓今奉納之れ有り、誰レ作と申す由緒は知れ

ず」とある。即ち二七面あった内の一面は南部信直の代に取り上げられたが、残った面については「山神、鬼、

十郎、五郎、翁、三番の面が各一、男女の面が各十面」であった。この舞は現在伝承されていないが、慈顕院の