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場合と同じように神楽
番楽のよう
なものか
)に使用されていたものであろう。
頭襟頭の役割
さらに大蔵院に関するもので注目されるのは「羽黒祢宜」と記されているものがみられることである。初見は
寛永一一年(一六三四)の『寛永支配帳』で、次に藩『雑書』の承應二年(一六五三)四月一〇日の条に見え、
この後も宝暦二年(一七五二)までの間に数度「羽黒祢宜」の記載がある。大蔵院が神職と兼帯であったことが
あったのであろうか。あるいは、元来神職であったのが山伏へ移行したものか。さらには、単に同じ羽黒山雲林
院支配の花輪通の大里村明王院の管理する羽黒田と区別するために用いられたものであろうか。残念ながら、大
蔵院金万家が神職であったことを裏づける明確な史料を見い出すことが出来ない。
〓に頭襟頭の果した役割について触れてみる。海沼家文書の中で寛延元年(一七四八)一
月に在庁より鹿角頭襟頭の慈顕院、大蔵院、不動院に宛てた文書の中に「堂社棟札遷宮井引
導佛事、金山木山川祭等は、先掟申渡し置候通、頭巾頭急度相勤可き事」とある。つまり山伏の管理する堂社の
修理や建替の棟札を書くこと、遷宮の場合の遷宮者
遷座祭
の主宰
)となること、引導
山伏の
葬儀
)や山伏の仏事を行うこ
と、金山、木、山、川などに関する祭については、頭襟頭が勤めることになっていた。
兜巾頭と記
具体例をあげれば、『寺社・三』の天明四年(一七八四)二月一八日条に頭襟頭
)の大蔵院、慈顕院、
されている
喜楽院の三人の連署で、去年からの不作による配下山伏の困窮を救うため、大蔵院、慈顕院の二人が本山の羽黒
山へ登り援助を得たいとして、藩庁に旅行の許可をもとめている。これには自光坊の請書も添えられている。
また藩『雑書』寛政四年(一七九二)七月一九日の条に