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出家二二人
山伏神子一四六人
内山伏四四人
神子七人
男四五人
女五〇人
社人一一人
比丘尼二人
座頭ゴゼ五一人
内座頭二四人
男一一人
女一〇人
ゴゼ六人
山伏の院坊についても宝暦年間(
一七五一
~六四
)には二五、安政二年(一八五五)頃には三二となっている。山伏の
総数については、前述の元治二年の宗門改目録に四五人とある。親子又は兄弟で山伏をした所も少なくなかった
模様である。
山伏の奉仕していた堂社の数は、延享年間と宝暦年間のものにおいては第四表(一
三七〇
ページ
)で示した通りである。
ただし、宝暦の『御領分社堂』には「社地斗り」「堂地斗り」と記されているものが、かなりの数に上る。つま
り堂社が朽ちて再建されないままになっていたものもかなりあった。それと山伏の側では奉仕堂社と主張してい
百姓などの
るものの内、実際には俗別当(
)の管理していたものも数多くあったと思われる。明和三年(一七六六)
身分の者
に記された『尾去沢御銅山附社地神木書上帳』
関
家文書
青)の中には九〇の堂社が記されているが、それは次のよう
に分けられる。即ち、山伏の奉仕する堂社4、俗別当の堂社〓、山伏と俗別当の堂社9、神職の堂社4、神職と
俗別当の堂社2、寺持の堂社1、不明4となる。