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たものである。
〔大蔵院の主張)羽黒田は、祭田として柴内村の羽黒新山社に寄進されたものである。
(
延享二年
不動院
それぞれの主張の根拠となるものは、羽黒山の場合、この文書には直接見えないが、前述の『神社由緒書上帳』
)の中に「柴内村ニ御座候御神田へ殿様より御検地御入遊され候節、在庁坊より殿様へ書上指上申所ニ、
御直筆の御返答書下置かれ候、在庁坊ニ今ニ御座候」とあるもの。又この殿様直筆なる文書は、『岩手県史』採
録の「御状披見申候、柴内ニ神田御座候哉、(中略)然共神田の御事は是非に及ばず候、先年の様ニ仰付けらる
可く候。六月廿九日信直判自福岡信直在庁坊人々御中」とあるものを指していると思われる。この文
書の年代は、南部信直生存中の慶長四年(一五九九)以前であろう。
これに対して大蔵院の根拠とするところは、大蔵院が所持する元和二年(一六一六)の南部利直安堵状と宝永
五年(一七〇八)の足高證文である。元和二年の文書(
金万家
文書
に「京郡柴内村の内羽黒田、七石八斗五升三合此
内六石六斗四升は本高、祭田として年貢赦免(中略)元和二年六月晦日(
利直の
黒印
)羽黒田」とある。また宝永五
年の文書の宛名が「羽黒祢宜」と記されている点である。大蔵院は、祭田とあること、また羽黒祢宜(を指
大蔵院
を指す
)と
南部
されていることから、羽黒新山社へ領主
)が寄進したものであるとの認識にたっている。
氏
この論争の結末は、大蔵院が折れて羽黒神田であるとして由緒書上〓
『延享四年本末井分限御
改帳』金万家文書
)を書直し、羽黒山
でもこれまで通りに大蔵院へ羽黒田の管理を認めることになった。
大蔵院の管理した羽黒田は、最初の頃は不明だが元和二年に七石八斗五升三合で、その後の加増により幕末に
は八石四斗五升九合となっていた。