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二七)に伊勢参宮の日数についての制限が記されている。享保三年には一率五〇日に限るとし、同一二年には、

一般人には五〇日とするが、高知の者九〇日、諸士七〇日に改められている。

伊勢参宮のついでに各地の神社や仏閣に参詣しようとする傾向も多かった。その主な所は、熊野、高野山、善

光寺、金毘羅などや奈良、京都見物などであった。鹿角からもかなりの人々が、参詣のために出かけ、多くの旅

日記を残している。例えば文化七年(一八一〇)の『関金兵衛道中記覚』

柳沢

家文書

)によれば、八月一四日に花

輪を出発し閏八月二三日に伊勢に着いている。その後、奈良〓大坂〓高野山〓大坂〓京都〓金毘羅〓京都〓大津

〓善光寺〓仙台と、帰国するまでおよそ四カ月に及ぶ旅行であった。その一〇月一五日の記事には、姫路と加古

川の途中で「あみ田、此所にて小豆沢の者逢う」とある。

勝又

この日

嘉永六年(一八五三)の『御境御用留』

)に見える古人安保庄太郎の場合は、三月一七日(

家文書

に願出

降に出発し、伊勢、金毘羅を参詣し四月二九日に帰着している。

これらの参詣旅行には、かなりの費用が必要であったから、誰もが自由に出来るという訳にはいかなかった。

そのため講を作り、無尽が行われ、旅費の積立を行って、代表者が参詣に行くしくみであった。講中の代表は何

らかの印を頂いて来ることが多かった。例えば、神号を記した掛軸などに参詣の年月日を書き、朱印を押しても

らって来る。それを講中で集まって掛け、拝礼を行い宴を催すのである。これが掛軸ではなく、参詣の時に求め

た神像や仏像の場合もあり、こうした講中の集まりをも鹿角地方ではトッ講と称している。

参詣旅行は、他に領内や近領の出羽三山、十和田青龍権現(

現在の十

和田神社

)、浄法寺の天台寺や葛原)

現在の大館市

十二所字葛原

)以

)の

老犬神社などに対しても、多くの人々によって行われた。