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第二節鹿角の文教
一、鹿角の学問
好学尚武の風土
匹世の鹿角は、学芸・武芸ともに隆盛の地として知られていた。それは多分に、藩境地帯
という地理的・政治的環境のなかから、おのずと醸成されたものであった。西と南に秋田
領、北に津軽領と、直接隣藩とその領境を挾んで対峙し、時として緊迫をもたらす状況のなかで、絶えず士気の
高揚が図られねばならなかった。
盛岡藩の鹿角郡統治は、花輪に花輪南部(中野)氏、毛馬内に桜庭氏、大湯に大湯南部(北)氏とそれぞれ一
門・重臣を配置し、のちに要害屋敷と公称された御預け館には、大湯館を含め常備の武具蔵を置いて藩境防衛の
拠点とした。花輪館・毛馬内館ともに二の丸郭内には代官所(御役屋)、御蔵、御蔵奉行所などがたち、行政の
中枢をなしていた。これら館を中心に、家中屋敷の並ぶ内町と町人の住む街道筋の外町とに分かれる小城下町が
形成され、藩の預け同心組として花輪に三〇人、毛馬内に二一人(うち六人は御境同心)、大湯に一五人が駐屯し
ていた。また所給人として士分に列する者も多く、藩境の監視や維持管理に専念する御境(吟味)役、御境古人
(山見など士分もしくは士分に準じる者、松山・土深井・熊沢・濁川各境番所に勤番する給人・与力を加えると
この山間の小盆地にかなりの数の諸士とその家族が居住し、好学尚武の気風を育てていた。