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鹿角はまた、藩内屈指の金山・銅山等の密集地帯として知られる。十指に近い鉱山は、その盛山時に藩の直山
として藩庁より奉行や山許詰役人が派遣され、山先山師や請負商人らの監督に当たった。とくに尾去沢銅山にお
いては明和二年(一七六五)以来藩の直営となり、山許に駐在する役人も多く、山先や支配人らは藩より扶持を
給され、嘉永三年(一八五〇)にそれぞれ給人として召出されている(
「覚
書』
○世襲の山先五家(青山・川口・沢出・〓
探
民・岩尾)には、代々の鉱山実務によって蓄積された知識技能が、山相学
鉱
や採鉱・冶金、算法の高い水準に
よる寸甫(
坑内
測量
、土木に至るまで、家学ともいうべき体系を形づくりながら継承されていた。これらの山先家
には聞えた教養人も少なくなく、他領から訪れる人士の絶えない刺激の多い環境のなかで、上層の士風とともに
山内には独得な知的雰囲気が漂っていた。
なお幕末において銅山に長期滞留した著名の士には、内藤天爵の周易の師となった畿内の人穂積某、同じく長
沼流兵法及び武衛流砲術の師羽州人亀井幹、浅沼郷左衛門等に山口流剣術を伝えた越中富山の西田伊助などがい
る(
鹿角)
志』
)。
えて鹿角は、「錦木」「けふの細布」など歌枕の地であった。古風な習俗や伝承をのこす土地柄として、諸国
の文化人、旅行者が憧れ杖を曳くことも多かった。『奥州狭郡錦木山観音寺縁記』
高橋
家所蔵本
)に併せ綴じられた
無表題の錦木塚歌句帳に、「寛政八の秋七月東都の行脚楊柳庵毫をとる」の序のもと、一〇〇を数える詩歌、俳
句が記されている。それらの作者の中には、越前甫立、伊勢人月草、江都真□、東都行脚むかし坊白夜、東都京
橋銀座一丁目住一朝、豊前帰雲、薩州川内小倉薩善、筑紫葛吾、江都□人、難波政伊など、遠国の風流人の名が
文化二年・岩手
多い。この特色は『錦木集』(
)にもあらわれ、東武去来庵、行脚爪坊、加州小松行脚十方庵、越中
県立図書館蔵