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が明義堂教授に登用され、経学の中心人物として活動した。春庵・五郎の父は毛馬内御境古人田口和多右衛門の
子で、秋田藩大館の江忰通英の婿養子となり医学を修業、盛岡において奥医師となった瀧治改め江賭童春通直で
ある。
藩学の整備
藩学明義堂は、安政元年(一八五四)にその経書講議と医書講議を行う文学教場を、城北下小
〓御屋敷に移した。即ち御薬園とよばれていた現在の盛岡市中央公民館である。弘化・嘉永か
り安政期へかけて、「質素節倹を守り、文武懈怠なく相励み申す可きは勿論、身分に応じ武器之調度肝要たる可
き旨」(
嘉永二年
「覚書』
といった布令が次々と出され、藩主の実地臨場による経書聴聞や武芸上覧も多く行われた。そ
の背景には、文化元年(一八〇四)幕命による盛岡・津軽両藩の東蝦夷地警衛、同四年同じく西蝦夷地への配備、
盛岡藩兵のエトロフ島におけるロシア兵との交戦、文政八年(一八二五)「異国船打払い令」に続く諸事件の突
発という緊迫した国内情勢があった。弘化元年(一八四四)九月には盛岡郊外茨島において総勢一万二、〇〇〇
人に及ぶ藩兵調練の大演習が行われ、大いに士気を鼓舞するものがあった。また安政六年、江賭五郎が藩学教授
に登用されたことにより藩学の学内組織も刷新され、発展的な展開をみる契機となった。
文久三年(一八六三)七月、明義堂の文学教場は、日影門外に新たに校舎を建てて移転し「作人斎」と名付、
られた。従来の下小路御屋敷の教場は「止戈場」と改称され、専用の武芸教場となった。『覚書』は、元治元年
〔一八六四)五月一〇日付を以て教授江皓五郎、助教藤井又蔵に対し「明義堂作人斎諸取据方御調御用懸り仰付
けらる」と発令されたことを伝えている。即ち江皓・藤井により作人斎教育の基本計画立案がなされることとな
り、同年六月江喘五郎は「学校仕組伺書」を提出し、次いで「塾法大略」を起草している。江賭の教学思想は、