テキストを表示
ていた。慶應三年、経費調達について藩はしばらく勘定奉行の職にあった奈良宮司の献策を入れて学田制度を採
用し、同年一一月宮司を修文所調役とした。学田制度は、岩手郡のうち上野・御明神・西根・西安庭・繋・雫石
の六カ村三、〇〇〇石を学田とし、その収入の金穀をもって藩学経費の一切を支弁しようとするものであった
〓
「盛岡藩学
通史
)。
藩学と鹿角
このような藩学の整備にともない、郡部にあっては各代官所の近傍に教場を設けるいわゆる〓
学校の振興につとめたとされるが、両鹿角の実情については余り知るところがない。
おそらく大湯南部家『御次留』より抄出したとみられる浅井小魚『大湯郷土史年表』
浅井
家文書
)の左の記事が、
天保期の郷土に関わる唯一のものと思われる。
○天保八年一二月四日
一、
一、此度諸士一統へ御沙汰被成候通、経書稽古取立方被仰付候ニ付、入門之者可有之候間、深切ニ取立可申旨被仰出。
酉十二月
嫡子嫡孫共ニ幼年之内ニ経書手跡等専ニ出精相学候様為心掛可申、書物素読相済候者ハ会読定日相立候て無怠出精
可申候、文義等之講述も追々承り可申、文筆ニ拙く有之候てハ殊ニ寄御遣方御差支之筋も有之候間何分出精可申候、
経書取立方之義ハ一方井勇右衛門へ被仰付候間、入門致候ハヽ深切ニ承可申候。
酉十二月
当住嫡子嫡孫共ニ兵学藝古仕候様被仰出候、取立方之義ハ山口廉蔵江被仰付候間、何分入門致候ハヽ深切ニ出精可
仕旨被仰出。
諸士一統江
一、
酉十二月