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家塾を継ぎ、郷土子弟の教育に当たった。長沼流兵法を小池晋蔵に、萩野流砲術を桜井起雲に学び、かつ絵画は

〓岡の田鎖蘭堂に就いている。萬延元年(一八六〇)藩主南部利剛が鹿角郡を巡見した際、恭助は御前におい

て孝経および兵要録を講じ、萩野流砲術を披露した。恭助は修斎と号し、その交友は広く、大館の中田錦江、高

橋松園、江喘晩香、盛岡の江喘梧楼、川上東厳、同郷の奈良養斎、沢出椿庵、川口月嶺と親しかったという。ま

たその門人には太田半十郎、熊谷助右衛門、内藤調一、馬渕乙次郎、花輪の栗山新兵衛、大里壽、川村左学、奈

良正敬、佐々木祐司、尾去沢の内田慎吾等が著われていた。明治三年三月花輪寸陰館の開設に際し、その舎長補

一等に挙げられている。郷人は緑泉、修斎、その子熊之助(貞享)の泉沢塾三代を常に「お師匠様」と尊称して

いたという。

寺小屋

鹿角においても庶民の子弟の教育機関である寺子屋・私塾がかなり古くから開かれていたと想〓

いれるが、その資料はきわめて乏しい。農村部の旧家は古い和書を蔵することが多く、各種の手

習手本のでることも屡々である。例えば谷内の阿部家に、文政六年(一八二三)の手本が残っていること

などである。また同家文書の中には、文政五年巳正月日「手習子中様」へ宛てた「定」書一枚が保存されている。

巻紙に認められたそれには三〇名の手習子の氏名が列記され、それぞれの役割分担が付されている。即ち「番頭」

二名・「脇」一名・「目付」二名・「世話役」二名・「新参頭」三名・「掃除世話役」二名・「火之用心」二名・

「新参世話役」二名・「新参」一四名とあり、整然とした秩序のもとに同家もしくは同村延命寺などで定期的な

勉学が行われていたことを示している。

明治初年の記録の中には、藩政末期の様子をも十分推察し得るものがある。その一つは、明治三年(一八七〇)