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三月江刺県学校として開設された花輪寸陰館の資料である。『寸陰館日記・第一号
『花輪町誌編纂資
料第一号』所収
)によって知
られる同館教員の多くは、当時花輪・毛馬内において私塾・寺子屋を開いている指導経験のある人たちであった。
「寸陰館舎長補」一等は泉沢恭助・小田嶋徳弥、同二等は内藤調一・奈良駒治・川村左学、「同訓導師補」一等は
田口多作・湯瀬哲太郎、同二等小田嶋太郎・奈良駒次郎・佐藤健助、「同句読師補」一等は大里壽・正衛、同二
以上姓
等友蔵・専之助・俊治(
)がそれぞれ挙げられている。
を欠く
欠に、明治六年一二月前年の学制発布によって寺子屋等の廃止が予見されるに至り、その存続をはかる「家塾
願」が提出された(
花輪小学校六十周年
記念誌』』昭和一二年
)。旧花輪通の提出者は
谷内同八人阿部庄兵衛
花輪生徒数六二人川村左学
二ケ田同四二人斎藤小太郎
夏井同
同同一八人斎藤周監夏井同五人伊藤俊主
大里同
長嶺同一四人青山周一郎
同同二〇人三ケ田昌順
であった。その外六名の医師、関隆達・富沢了斎・中村元養・川瀬周庵・武村元迪・武村元庵の履歴書が付され
ているので、これらの医師も寺子屋教育に関わっていたものであろう。
『花輪小学校六十周年記念誌』』は、さらに寺子屋の有様を次のように述べている。
そも〳〵寺子屋は手習処、筆学処とも云い、明治維新以前における庶民教育の機関で、現今小学校の前身をなすもの
である。其教育に従事する者は僧侶の外、神官、浪士、医師等であって、中には女子の手で寺子屋を開く者さえあっ
た。斎藤周監氏の母が生徒に教えたと言い伝えられているのが其一例であろう。
教師は生徒の多少に拘らず、大抵一人で担当し、助教員を置くことは稀であったが生徒頭とも称すべき番頭を置いて