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助手とした。就学年令は一定しないが、男女共六歳頃から入学し、十二、三歳頃退学するのが普通であり、男女共当

であったが厳に其席を区別した。教授時間は毎日朝読みと称して早朝お師匠さんの処に行って四書五経等の素読をな

し、朝食後再び出席し午後まで書き方の練習を懸命にやった。習字は能書を第一目的とし、月数回の清書においても

良と認めらるるまで何回となく練習させらるるのであった

手本を先生が一々書いてくれた。年末にはセッパと称する一年一度の清書があり、正月には張り掛けと称する大字の

清書があり、これには大小の二種があって、大は半紙縦つぎのもので二枚に一字を書き、小は半紙横つぎにして一枚

に一字を書くのであった。毎月二十五日には天神祭の清書があり、二月二十五日には産土の天神社において行う奉納

の清書があった。

尚商家の子弟の為に商賣往来、実語教が用いられ、女子の為には女大学、女今川等が用いられた。算術は珠算で、加

減乗除から開平開立、求積に至り、教科書には塵劫記が用いられた。

なお家塾・寺子屋について『秋田県史』(

大正版

第三冊

)は次の表を掲げている。

(場所)(開設年)(閉鎖年)(身分)(師匠)

花輪村天保末年明治元年士川村俊平

同同同士武村元油

同安政初年同五年士斎藤周監

毛馬内村安政年間同士泉沢恭助

同同同士石川和蔵

大湯村天保十年同二年士汲川龍之助

昭和四四

また『鹿角のあゆみ』(

)は、前記明治六年「家塾願」及び前表の外に花輪奈良正敬、毛馬内瀧玄績、

同刊行会

尾去沢大森武七、柴内木村丹右衛門、夏井金沢大鏡・金沢茂紀、松山内藤市郎太を追記している。

ほかに、『大湯諸士由緒書上』(

諏訪

家文書

)の中に古く大湯森田祐の手習子取立が見え、また『鹿角志』に従え