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一七七二-
-大湯の人、秋田藩士二階堂南竹(
)の門に在って漢籍を修め、家塾を開
○千葉茂(
大館の人か
不詳
没年不明
いて令名があった。
○内藤市郎太(不明)松山の人、内藤天爵の教えを受け、後玉置流書道の薀奥に達す。盛岡に出て習字塾
を開くや入門の者引きも切らず、平生一日一食に止めざるを得なかったという。盛岡に在ること一〇余年の
後帰郷した。
○泉沢牧太(履斎)(
七七八-
八五五
毛馬内の人、弱冠にして発憤し江戸へ登り、叔父伊藤為憲の周旋を得て
朝川善庵の学僕となる。刻苦三年にして塾生の列に加わり更に研鑚を積む。文化一三年幕命により水戸浦に
漂泊した清国人と応接し、一躍名声を天下に挙ぐ。やがて伊勢亀山石川総安(六万石)の藩儒となり禄一五
後の
〇石を与えられる。また江戸において盛岡藩世子信侯(
)に経書を講じ、天保九年盛岡に下り城内にお
利義
いて御前講釈を行ったことは前述の通りである。安政二年、江戸大地震に負傷し七七歳で歿した。
)豊口傅(不明)医師瀧圭純の弟にして豊口勘六の養子となった人。幼少より泉沢緑泉の門に学び経史
を修め、詩作に長じ岷山堂と号した。養父勘六も私塾を開いていたが、傅が後を継ぐや塾生がすこぶる増加
したという。
○奈良宮司(養斎)(
八〇三-
八七一
尾去沢の人、御銅山山先青山金右衛門家に生まれ、同じく山先奈良直右
衛門の養子となる。幼年の頃より内藤天爵門において経史と医術を学んだ。御用銅の用向で江戸や大坂に登
ることが多く、江戸に入っては専ら泉沢履斎・東条一堂の門を叩き、京坂では特に俳人八千房に入門し俳諧
の道に励んだという。藩政の中でも次第に頭角をあらわし、銅山吟味役、銅山方などを経て安政五年勘定奉
行に、慶應三年修文所調役、明治元年大監察・会計総裁に昇進した。
一七九八
不明
大湯の人、秋田藩士二階堂南竹の門で経史を学び、すこぶる文名があった。
〇一方井勇右衛門(