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)山口庄次郎(不明)大湯の人、二階堂南竹の門。寺子屋を開き多くの子弟を養った。また謙信流兵学を
修め、その門人も多かった。
○小田嶋由義(
八四五-
九二〇
尾去沢内田家に生れ、一三歳にして小田嶋家の養子となった。早くから盛岡い
出て文武の学を修め、一九歳の折選抜されて藩校作人館に入った。戊辰の役に際し花輪隊惣取締として出陣
し、維新直後南部家白石転封を阻止すべく上京の上種々画策した。明治五年より一六年まで工部省官吏とし
て活躍、のち鹿角郡長として実績を挙げている。
○川村左学(
八四一
一九一三
花輪の人、幼年の頃叔父川村寛平に漢籍を学び、のち盛岡江賭梧楼の教えをう
けた。帰郷して私塾を開いたが、戊辰の役に出陣。明治になって江刺県寸陰館舎長補、小学校訓導、同校長
等本郡の教育振興に尽力した。
算法家
鹿角は古くから鉱山技術を継承してきたという独得な数理的風土のなかで、幕末に至って多くの
算法家がでている。なかでも著名なのは毛馬内の湯瀬謙吾と花輪の関純蔵である。
桜庭家中湯瀬謙吾(
不明
一八五六
は、盛岡関流算術阿部九兵衛の門に学び「演段術以上数級」に達して帰郷した。
花輪の開純蔵(
一八二五
-九六
)も同じく関流算術で、兄常興が同流演段術を会得し『算法理解抄』を著わしてから
算術は同家の家学として定着した。純蔵はその家学を継承し、算法師として多くの門弟を養った
「鹿角志』・
「花輪町史』
郡内にもっぱら行われたのは、関流算術であった。以下に『覚書』に記載された稽古御暇願を掲げる。その文
面から当時の学問習得がいかに難事であり、余程条件に恵まれた人たちに限られていたかが窺い知られる
)。
○安政六年八月二七日条
一、